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2016.09.02 金曜日

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馬王堆(上) 生けるがごとく出土 前漢の貴婦人の謎

 1972から74年にかけて、湖南省長沙市の馬王堆で発掘された三基の前漢(紀元前206~紀元25年)の古墓から、完全に保存された女性の遺体(ミイラ)が発見された。さらに出土した3000点以上の珍しい文物の中には、精巧な漆器、華麗な絹、薄絹に描かれた神秘的な帛画、実際に測量して作られた地図、地下の図書館とも言われる大量の帛書(薄絹に書かれた文書)があった。これらは2100年前の中国の社会経済や科学技術、宗教意識、風俗習慣、貴族の生活を再現することができる貴重なものである。


1号墓出土の棺。黒地に彩色された絵が描かれている

  
  世界を驚かせた発掘


  馬王堆の漢代古墓遺跡は、長沙市内から東へ5キロ離れた郊外にある。1972年に発掘された一号墓と、その後発掘された二号墓は埋め戻され、いまは三号墓しか見ることができない。三号墓は整理・補強され、その上に大きな屋根をつくって観光客に開放されている。

  「文化大革命」が始まる前に、世界的に有名な考古学者の夏鼐氏が馬王堆を視察し、ここには必ず重要な墓葬があると断定した。このため1956年、湖南省政府は、馬王堆を重点文化財保護単位に指定した。しかし「文化大革命」が始まり、いたるところで地下防空壕が掘られた。馬王堆の地下にも1971年12月、衛生部隊によって病院が建設された。ある日、打ち込んだ鏨を引き抜くと、そこから急に冷たい空気が噴き出した。マッチで火をつけると、青い炎をあげて燃え続けた。  

  湖南省博物館の指導者や研究員の熊伝薪さんらが現場に駆けつけると、青い火は3日三晩燃え続けてやっと消えた。こうした墓は「火坑墓(オンドル墓)」と言われるが、実は古墓の中の有機物が分解してできたメタンガスが燃えたのである。このため研究者たちは、墓の中の文物の保存状態は良いと推測し、喜んだ。上級機関の許可を受け、1972年1月16日から、一号墓の発掘が始まった。墓を覆っている封土を取り除くと、竪穴の四角い「方穴墓」が姿を現した。墓の入り口から下へ12.2メートル掘り、さらに30~130センチの白い粘土層と40~50センチの木炭層を掘り進むと、椁室(棺をおさめた部屋)とそれを囲む四つ部屋が現れた。それは椁室を中心に井の字型をしていた。その蓋を開けると、椁室の周囲にある四つの部屋の中は、各種の貴重な文物でいっぱいだった。また椁室内に置かれた四重の棺も完全に保存されていて、みな大いに喜んだ。

 1973年11月から、二号墓と三号墓の発掘が始まった。二号墓と一号墓は東西に並列しており、別々に埋葬された夫婦の墓であることがわかった。さらに墓の中から見つかった印鑑、封泥(封緘するための粘土の塊)、木簡などから、二号墓の墓主は、前漢初期の長沙国の宰相である軑侯の利蒼(在職紀元前193~同186年)であることがわかった。また一号墓の墓主は軑侯の夫人の「辛追」という名の女性であることも判明した。


軑侯夫人の「辛追」の遺体



     軑侯夫人「辛追」の復元された像


 三号墓は一号墓の南にあり、これは利蒼の息子の利豨の墓である。この二号墓と三号墓は、周囲に木炭と白い粘土がいっぱい詰められ、その上を盛り土で密封してあった。しかし、二号墓と三号墓は先に造られ、その規模は比較的小さかった。二号墓の中に置かれた棺は二重しかなく、白い粘土層も薄く、よく密封されていなかった。そのうえ何回も盗掘されたので、出土した文物はかなり少ない。 しかし、二号墓で発見された三個の印鑑は、「利蒼」「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれており、それぞれ利蒼の私印、爵印、官印である。こうした発見はきわめて珍しい。

 また二号墓の上部は円筒形をしており、墓の底部から3メートル余りのところは四角形になっている。これは、古代の人々が持っていた「天は円く、地は四角い」という「天円地方」の宇宙観が墓葬に反映したものという研究もある。


  なぜ腐らなかったのか

  一号墓の棺は湖南省博物館に運ばれた。北京市と湖南省の考古学者が棺を開き、注意深く、遺体が着けていた二十枚の絹の着物を外すと、2000年以上前の完全に保存された女性の遺体が再びこの世に現れた。  

  身長1.54メートル、体重34.3キロ。全身の筋肉には柔軟性があり、つやがあった。皮膚の色は浅い黄色で、手足は自由に曲げることができる。指でその額や腹、腕を押すと、くぼんだ筋肉がまた元に戻ってきた。まつげや皮膚の毛穴もはっきり見てとれる。体内に防腐剤を注射すると、筋肉はたちまち膨らんで、その後次第に拡散し、生体に注射するのとまったく同じだった。  

  この女性の遺体を保存するために、医学専門家は、死体を解剖した。頭蓋骨を開けると、脳が約半分に萎縮していて、オカラのような状態になっていた。そして腹を開くと、心臓、肺、気管、肝臓、胆嚢などの内臓は縮小し、薄くなってはいたものの、どれも比較的完全な外形を保っていた。さらに大部分の細胞、細胞膜、細胞核、肺門の迷走神経もはっきり見分けることができた。



1号墓出土の棺。赤地に彩色された絵が描かれている


 解剖を通じて墓主は、生前、さまざまな病気を患っていたことがわかった。例えば、左冠状動脈の一部分は完全に詰まっており、ひどい心臓病を患っていた。胆管内には、大豆大の結石があった。左上肺には結核の病巣があり、石灰化していた。  

  右の二の腕は、骨折した後癒着し、奇形になっていた。第四腰椎の隙間が狭くなっていた。さらに住血吸虫病や蟯虫、鞭虫などが寄生していた。  

  しかし、専門家たちは、胃腸に138粒のマクワウリの種子が残っていたことから、50歳くらいの軑侯夫人の死因は、恐らくマクワウリを食べて、胆嚢痛の急性発作を起こし、さらに心臓病を誘発して死亡したと分析している。  

  当時、周恩来総理は、馬王堆の女性の遺体を、少なくとも200年間保存してほしいと要望した。各方面の努力によって、現在、この女性の遺体は、博物館がそのために建てた「地下寝宮」の中に横たわっている。遺体は地面より8メートル深いところに置かれ、温度と湿度は常に一定に保たれている。さらに周総理の願いが叶うように、その他の医学的な措置が施されている。

 しかし遺体が2000年もの間、これほどまで完全に保存されてきた原因はどこにあるのだろうか。この問題については、医学界や考古学界で、異なる角度からさまざまな見解が提起されている。

 まず漢代は、貴族はみな死んだ後、郁金香(チューリップ)を煎じた「香湯」と黒いキビで醸造した「鬯酒」という祭祀専用の「におい酒」で遺体を洗う。これによって穢れをぬぐい、消毒もする。  それから数枚の絹の死装束で死体をしっかりと包む。これで虫の侵入を防止できる。

 一本のアズサの木からつくられた外椁は、隙間がなく、頑丈である。そして、四重の厚い棺は、内側にも外側にも漆が塗られ、ニカワと漆でしっかりと棺の蓋が閉じられ、固定された。こうした密封措置によって、棺内は酸欠状態になり、好気性細菌の生存ができなくなった。

 さらにこの女性の遺体は、地下16メートルの赤土の中に埋葬された。水が染み込みにくいため、温度と湿度が一定に保たれるという良い条件に恵まれた。棺の周囲の木炭層は、防湿・吸水の作用があり、白い粘土層も水がきわめてしみ込みにくく、さらに一層一層突き固めた盛り土によって、墓室はしだいに酸欠状態となり、遺体や有機物はそれ以上腐敗することがなかった。


1号墓から出土した雲紋の漆の盆


 つまり密封すること、深く埋葬すること、温度と湿度を一定に保つこと、酸欠・無菌状態にすること、それが遺体保存の基本条件といえる。

 しかし遺体が浸されていた棺内の80リットルの黒褐色の液体は、弱酸性を呈し、細菌の繁殖を抑え、死体の完全保存に対して特定の役割を果たしたという。


  再現される王侯貴族の暮らし

  功績をあげて侯に封じられた利蒼は、長沙国の宰相の座にあって十分な俸禄をもらうだけでなく、朝廷から耕地や豪邸を与えられていた。研究によると、軑侯の財産は数億元にも達し、ここでは、副葬品リストである「遣策」の記録や出土した文物に基づいて、当時の貴族の生活や風俗を簡単に紹介しよう。

 まずは居住。一号墓の「井」の字形の木造椁室の副葬品から、当時の貴族の居室やそこで使われていた用具の概略をうかがうことができる。墓室の北側にある部屋は、大きく、広々としている。周囲にはきれいな絹織物をカーテンとして張り巡らし、床には絨毯のような竹のむしろが敷かれている。両側に華麗な彩色の屏風や精緻な絵が描かれた漆のテーブル、高級な刺繍の枕や服飾、そして侍者の俑(人形)が一列に並んでいる。これは墓の主の母屋と居間の飾りつけだったと考えられる。



1号墓から出土した雲紋の漆の酒器   1号墓出土の「九子奩」

 また北の部屋には、彩陶の香炉や扇子がある。  長沙の夏はとても暑いが、ここには細長い竹で編んだ扇子が二つある。小さいのはおそらく軑侯夫人自身が使っていたものだろう。長さ1.76メートルの大きな団扇は、侍女が主人のために煽いで風を送ったものだ。

 椁室の東の部屋には、60の木製の俑や大量の漆器、陶器があり、東と南の部屋は、軑侯の執事や奴婢が居住し、働いていたようだ。西の部屋には、物が入った数十個の麻袋や三十数個の竹製の箱があり、ここは墓主の倉庫だったと考えられる。

  次は飲食。北の部屋にある漆の食卓には、おかず五皿、吸い物一碗、酒一杯、飯一碗、数串の焼肉、箸一膳が並べられている。漢代では、食事は各自別々にとるのが流行っていたため、これはおそらく軑侯夫人の日常の食事だったと考えられる。

  江南地方は米の産地であり、西の部屋にある麻袋には、籼や粳(ともにウルチ米)、もち米が入っていたことから見れば、主食は米だったと考えられる。また、倉庫には麦や黍、粟、大豆、小豆、梨、ヤマモモ、棗、梅などの果物や卵、野菜などがあった。

 発掘当時、陶器の壷に入っているヤマモモは紫がかった赤色で、果肉はふっくらとしており、果柄は青々としていた。そこで思わず食べてみた人がいたが、2000年前のヤマモモはすでに酸っぱさも甘みもなかった。  また、漆の鼎から水に浸された薄切れの蓮根が発見され、乳白色で穴もくっきり開いていた。それを車で博物館へ運んだが、振動や空気との接触の時間が長すぎたため、思いがけないことに、蓮根は水に溶けてしまった。地震研究の専門家はそれに基づいて、長沙は2000年間、大地震がなかったと推定した。軑侯家は美食を重視していた。一号墓と三号墓から出土したメニューは百品くらいあり、当時の調理法は炙り、あんかけ、煮詰め、蒸し、炒めなどの十種類ある。

 軑侯夫人のお気に入りの焼肉は、鶏の丸焼き、鹿肉焼き、豚肉焼き、牛肉焼き、部厚い牛肉の焼き物などだった。

 調味料では、塩、味噌、豆豉(大豆を煮てから発酵させたもの)、砂糖のほかに、麹、蜂蜜、韮、梅、陳皮(乾かした蜜柑の皮)、山椒、茱萸(ミカン科の木の果実)などがあり、色も味も豊かだ。

  湖南省博物館

 日用の雑貨はさらに多く、ここでは化粧品だけを取り上げてみよう。

 一号墓からは嫁入り道具を入れた漆の箱が二つ出土した。一つは「九子奩」といい、上下二段に分けられており、上の一段は三対の手袋や銅の鏡などが入れてあった。下の段には九つの小箱があって、それぞれ頬紅やさまざまな化粧品、おしろいたたき、櫛、すき櫛、糸や針を入れる袋、かつらが入っている。当時、軑侯夫人は、化粧するのが大好きだったに違いない。

 馬王堆からは、琴や瑟、竽(笙の大きなもの)、笛などの実物、鐘、磬、鈴などの明器(死者とともに埋葬した器物)のほか、歌い手や踊り手の俑も多く出土した。これは軑侯家の、音楽や舞踏を楽しむ暮らしを彷彿とさせる。

 そのなかの一つに、地にひざまずいている女の歌い手の俑がある。その鼻は高く、赤くて切れ長の目をし、頬に白粉が施され、美しい眉をしている。赤い唇はかすかに開いており、歌っているように見える。1995年にオランダのアムステルダムで馬王堆文物展が開催されたとき、この女人俑は「東方のヴィーナス」と称えられた。

  セミの羽のような絹の着物

  馬王堆漢墓からは、大量の華麗な服飾品や絹織物も出土している。少量の麻の布を除き大部分は絹織物である。考古学者たちは、浙江省銭山漾の良渚文化の遺跡から絹織物の残片や絹の紐、絹糸を発見した。これによって5000年前にすでに養蚕が行われ、繭から糸を繰り、絹織物を織っていたことが分かった。漢代には、シルクロードを通って西域へ運ばれた、軽く柔らかな美しい絹織物が、欧州やアジア各国を驚かせ、中国は「シルクの国」と呼ばれた。

 ここに展示された絹織物は、絹、紗、羅(薄絹)、綺(綾絹)・錦などがあり、あらゆる種類がそろっているうえ、技術も抜群で、当時の高度に発達した絹織物のレベルを示している。  例えば二件ある「素紗褝衣」という裏地のない単の衣服は、考古学界で国宝級と認められている。長さ128センチ。袖の長さ190センチ。重さは、一件がわずかに49グラム。もう一件は48グラムしかない。  

1号墓から出土した「素紗褝衣」



1号墓出土の「印花敷彩」の錦の長衣


 「素紗褝衣」は柔らかく、薄くて透けて見える。これを着ると、内側の錦の模様が外からかすかに見える、まさに美女が地味な服を着ているように、ますます高貴に見える。数年前から、ある絹織物工場がこの「セミの羽のように薄く、煙のように軽い」単の衣服を複製しようと何度も試みたが、結局、成功しなかった。もともと現在の蚕は大きくなっていて、吐き出される蚕糸も太い。だから複製品をつくっても、いつも重量がオーバーしてしまうのである。古代においては、錦は金と同じくように価値があり、その故に「錦」という字は「金」と「帛」で構成されている。馬王堆から出土した九種類の錦は、品質がきめ細かく、薄い。下地の色は落ち着いていて、紋様の多くは動物や花卉、幾何学模様であり、明るくあでやかだ。刺繍は絹や紗、羅、綺に施されることが多い。まず図案を描いておき、適当な色の糸を選ぶ。「平針繍」「鎖繍」「打籽繍」などの刺し方がある。刺繍の図案には「燕子帰来」「金竜翻騰」「彩雲飄飛」など、美しくて吉祥が込められているものが多い。刺繍の線は滑らかで、色彩は鮮やかで、縫い目の密度は細かく、まことに美しい。  

  一号墓から出土した三件の完全に保存された「色模様がプリントされた絵が描かれた衣(画衣)」は、とても貴重なものである。研究によると、これを製作する際にはまず、色模様印刷の透かし版で絹織物の上に花や草、枝や蔓を印刷する。その後、鉱物、植物顔料を用いて赤い花や灰色の葉、蕾などを描く。  

  「画衣」は、描かれた線が滑らかで、濃淡がはっきりしているうえ、色彩の濃いもの、淡いもの、厚みのあるもの、薄いものがあり、非常に立体感がある。高貴で華麗な「画衣」は、王室や貴族が祖先を祭る大祭の時だけ着装する。しかし、「印花」と「敷彩」を融合させた「画衣」は、つくられた数が極めて少なく、製作に時間がかかるので、その技術の伝承が途絶えて久しい。

 馬王堆から出土した金銀のプリントされた紗は、世界で最初に発見された彩色のプリントされた絹織物である。研究によると、これは三つの異なる模様の凸版と、異なる色を用いて、三回に分けて絹織物の上に印刷する。この操作技術は実に複雑で、幅48センチの絹織物を1メートル印刷するのに1300回刷らなければならない。  

  同時に、色刷りの技術は厳密さが求められる。もし色刷りが正確でなければ、互いに重なりあったり、間隔が一定ではなくなったりする。しかし、この凸版印刷と透かし版の色模様プリントは、後に織物のプリント技法が確立するための技術的な基盤となったのである。

  人民中国インターネット版 2010年11月







 

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